「ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法」を読んで

 ドナルド・フェイゲンが1982年に発表した「The Nightfly」というアルバムを あの冨田ラボこと冨田恵一氏が徹底的に解剖した本「ナイトフライ 録音芸術の作法と鑑賞法」を読み終えました。

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 たしか僕はこのアルバムを 発売と同時に買ったはずなんだけど 当時の僕はブラック・コンテンポラリー・ミュージックにドップリ浸かっていて 箸休め的にフュージョンや A.O.R. を聴く という感じで もしかしたら「スティーリー・ダン」もロクに聴いた事がなかったんじゃないだろうか。だから当時はたぶんジノ・ヴァネリ系の「ちょっと硬派な A.O.R.」という認識でこのアルバムに手を伸ばしたんだと思うんだけど 実際はとてつもなく異様な音楽だった。ん〜 言葉で説明するのが難しいんだけど それまで聴いてきた音楽とは明らかに違う響きを持っている ように感じたんだね。まず和音が普通じゃなかった。明るいのか暗いのか 広がろうとしているのか閉じようとしているのかさえ判断できない。それまでもジャズやフュージョンでテンションノートに触れる という経験はしてきたはずなのに 当時の僕にはまったくもって理解不能の響き方で とにかく難解な和音 という印象が圧倒的だった。それから そのころ音数の多い曲を好んで聴いていた事もあるのかも知れないけど 音数のあまりの少なさにカルチャー・ショックを受けた。おまけに残響系のエフェクターもほとんど掛ってない。普通ならば 音数が少なくて残響も含んでいない場合 スカスカになるはずなのに隙がないんだね。1つ1つの石が1ミリの隙もなくキッチリ積み上げられたお城の石垣みたいな感じ。それらの特徴すべてが とにかく僕には異様に映ったんだね。なのに である。アルバム全体を俯瞰で見ると ポップスとしての全体像をキチンと保っているんだね。無理してポップスのフリをしているのではなく 揺るぎない骨格で美しく自立している。異様なのにポップ それが不思議であると同時に不自然でもあり‥‥不自然なのに美しい という事が不思議で‥‥という無限ループの中で揉みくちゃになりながら恍惚感を味わう みたいな そんなアルバム。ん〜 やっぱり説明しづらいわ(苦笑)

 で 僕にとってこれ以上ないほど不思議なこのアルバムを 冨田さんが分析すると何が飛び出すのか に興味津々だったわけであります。あの〜 あまり長文にしたくなかったんだけど 既になっちゃってるね。ん〜 いきなり結論を言いますと コレはとんでもなくクレイジーなアルバムでした。まさか1982年にこんな方法でポピュラー・ミュージックを作る事が可能だったとは思ってもいなかったのですよ。まさに「そんな事ができたの?」「そこまでやる?」の連続であり 驚くと同時に「なるほど だからか」と納得させられる分析結果でもありました。アルバムに収録されている曲を1曲ずつ 何10回もリプレイしながらページをめくり 部分的に巻き戻しながらまた読み返し を繰り返す中で このアルバムが持っていた「不自然な魅力」の正体を 自分なりに突き止めた気になりました。しっかし冨田さん凄いわ。ここまでの分析はきっと世界中探しても他に誰もできないんじゃないかな。「市川崑のタイポグラフィ」を読んだ時に似た感服ひれ伏し体験でありました。

 しかしよく考えてみますと 冨田さんが1962年生まれで 僕は1963年生まれ。互いに最も多感な時期に70年代と80年代を跨いでいるわけです。冨田さんも書いてらっしゃったけど 70年代と80年代では明らかに音楽のスタイルも作られ方もガラッと変わっちゃって 思えば随分特殊な時期に音楽の洗礼を受けちゃったな という見方もできるわけです。その後 70年代や60年代以前の音楽を聴くようになって やっと今自分が立っている場所をより客観的に 大きな時間軸の中で捉えられるようになるわけだけど この「The Nightfly」発表後 ドナルド・フェイゲンが10年にわたって 活動をほぼ休止してしまったのと同じように 僕も1990年代は約10年にわたって 新しい音楽をパタッと聴かなくなってしまい やはり音楽の世界は10年周期で潮目が変化しているのかなぁ‥‥などとね ん〜 すいません やっぱり上手くまとまりません(笑)えーっと とにかくこの本は とてつもなく興味深い情報てんこ盛り盛りの素晴らしい内容でした。

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