必要な分だけ作る

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 今日と明日、故郷で夏祭りをやっていると言うので、行ってみようかと思っていたんだけど、雨のためにイベントなどが中止になったらしい。しょーがないので祭りは明日行く事にして、買い物に出かけ、そのついでにチャンポン屋で「みそ豚骨チャンポン」というシロモノを食べた。う~ん‥‥マズからずウマからず‥‥。 僕がカウンターでチャンポンを食べていると目の前の厨房ではギョーザが焼かれていた。店員が焼き上がったギョーザを中年の夫婦らしき2人の座るテーブルに持って行くと、男の客が顔をしかめて何やらアピールしている。どうやら「もうお腹がいっぱいになったからギョーザはいらない」と言っているようだ。店員は渋る事もなくギョーザを持ち帰って来た。「なんてワガママな客だ」そして「なんて弱気な店員だ」ギョーザを調理する前ならキャンセルできても、テーブルに持って来られた段階で「いらない」は許されないだろっ!

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 僕はうちの台所のゴミ箱の上の壁にこんな紙を貼っている。何年も前の雑誌の切り抜きだ。「輸入してまで食べ残す、不思議な国ニッポン。」食料自給率が低いくせに、食べ残すし、売り残す。さっきのギョーザは誰にも口をつけられる事なくゴミ箱行きだ。飲食店などで食べ残されたり、調理される事なく捨てられる食品っていったいどのくらいの量になるんだろう? スーパーマーケットなどでも売れ残った食料品を多く捨てているはずだ。日本は明らかに消費する量の何倍もの食べ物を輸入している。

 一昨日の日記に「iTunes Music Store」の話を書いた。デジタル化されネットでやり取りされレコードやCDやカセットやMDが消えて行く事には僕も寂しさを感じるし、味気ない時代になったものだなぁ。と思う。けど僕には常々気になっていた事がある。リリースされたはいいが思ったほど売れず廃盤や絶版になったレコードやDVDやCDや書籍って、いったいどう処分されているのだろう? 音楽も映像も文学も「樹脂」や「紙」という物質に変換され、消費される量より多く生産され、化石燃料を使って店頭に運ばれる。そして売れ残る。再び化石燃料を使って回収される。ある程度はリサイクルやリユースされているのかもしれないが、これは食料の場合と似てはいまいか?

 「必要な分だけ作る」それが当たり前だし、自然な事だと思う。けれどもそれでは消費効率が落ちてしまう。「余ってもいいからドンドン作れっ」「余って損する分はあらかじめ商品の価格に上乗せしとけっ」それが今までの常識だったのかもしれないが、もうそんな事続けてちゃイカンでしょ。ヤバいでしょ。南極の氷が溶けるでしょ。海水面が上がるでしょ。

 そして、物質に変換しない事で音楽はやっと音楽として自立でき、文学は文学として自立できる可能性があるのではないかと期待している。ビジュアル戦略に足を引っ張られる事なく、純粋に音だけで評価され、文章だけで評価されるようになるといいなぁ。と思う。センスのいいジャケットや装丁を作る予算がなかったり、ミュージシャンのルックスが悪くても、出版社の宣伝力がなくても、音楽がものすげぇカッコ良ければそれで充分じゃん。ワクワクする物語が綴られてればそれで充分じゃん。僕はそう思う。だってもともと音楽も文学も物質じゃないもん。自分の首を絞めるような事を書いてる今宵のフレディーであった。この先デザイナーはどう生き残るべきか‥‥。

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